「思い出 あれこれ(7−3)」は、故 織田晃氏です。
2)織田 晃氏とは伊豫田康弘氏と同じで、小学校の6年間同じクラスでした。彼は小柄で華奢で何となくひ弱で坊ちゃんタイプでした。両親が市内の中心地で松竹系の映画館を経営していたと記憶しています。前述の「伊豫田康弘」の自宅と彼の映画館とは数百mの近さだが、タイプが異なるせいか小・中と一緒の学校ですが、どういうわけか一緒に遊んだ思い出は私にはないのです。
1998年頃 小学校のクラス会で彼と出会い、自己紹介で現在東京に住みファッション業界の記者をやってるのを聞きました。私はふと長女が将来ファッション業界に関係すると思い、彼に近付き長女が新宿の「文化服装学院」に在籍してると話しました。彼は幼い時のイメージとは全く変貌し、自分にぴったりの仕事に合い就いて、精悍になり野心さえが見え己のビジネスに自信を持って進んでたのです。
長女がNYCに行って(2002年)からも色々面倒を見てくれてたようだ。長女はNYCで、アクセサリーの自分のブランドを立ち上げ、東京の原宿・青山・六本木辺りのショップに置いてもらったり、大阪の阪急デパートの「NYCフェアー」に出展しているので、年に何回かは帰省してた。織田氏に言わせると「彼女は俺よりやり手だよ!スエーデン大使館のイベントで一緒したが彼女の方が知名度があったよ!」「もう俺なんか負けてるよ!」ーーーと。
2011年10月 小学校の同級生の熟女(66才)?3人を同伴し上京、横浜在住の同級生を誘い「はとバス東京見物」を決行したね。織田氏は当日出張で博多にいたが、夜戻ってきて渋谷の彼が馴染みのパブレストランで「ディナーパーティ」をセッティングしてくれたよ。その後はいつも通り目黒の彼の豪邸でワインで一杯、他愛ない取り留めのない童女に戻った熟女中心の談笑ですねーーー。
(右写真は2004年織田氏の自宅で小学校の同級生が集まり、左端が織田晁氏でその隣が私です。右端が2005年59才で死去した伊豫田康弘氏。左の写真は2005年に亡くなった伊豫田氏を偲んで2011年織田氏の自宅に同級生の熟女達が集まった日の元気な織田晁氏)
彼の経歴は、大学卒業後「繊研新聞社」で記者、編集者、WWDジャパンのファッションディレクターを経て2005年「ファッションジャーナリスト」として独立。日本におけるファッションジャーナリストの草分けとして活躍した。
杉野服飾大学特任教授を務め、NPO法人ユニバーサルファッション協会名誉会長・ファッションビジネス学会ユニバーサルファッション研究部会理事長、東京成徳大学客員教授を歴任した。
日本におけるファッションジャーナリストの先駆けとして、コレクションを報道し続けた。プレタポルテの黎明期から取材を続け、日本のデザイナーのパリ・コレクション進出の過程を見届けた。
ジャンポール・ゴルチェやアントワープ6の台頭、トム・フォードをはじめとするクリエイティブディレクターの時代を様々な角度から切り取った。新しい才能を見いだす目も卓越していた。「クリツィア・トップ」を手がけた当時無名のアルベール・エルバスを大きく取り上げた。
編集者としてだけでなく、イベントの企画立案でも才能を発揮した。繊研新聞者主催の東京新人のクリエーターズコレクション、2000年11月にはジャーナリストのスージー・メンケス氏を招いてのファッションシンポジウムなどを主導した。
服と時代の距離感を図り、服を通じて冷静な目で時代を語ろうとした。ランウェーだけでなく、ロンドン・パンクや竹の子族といったストリート・カルチャーにも目を向けて、時代と服のあり方を探った。近年はユニバーサルファッションやサスティナビリティーなど、ファッションの新しいについても言及していた(以上繊研新聞記事より)。
2016年10月3日 織田晁氏 食道ガンで70才で亡くなった。約10ヶ月前にレベル4と診断されたが、彼は仕事を優先させパリに出張したようだ。彼らしい鮮やかな一生だったと言えます。
貴方がその都度助言してくれた私の長女は、NYCのファッション業界で生き抜き、もう18年になります。数年前から自分のブランドを残して、NYC発祥のC 社のメインデザイナー職についているようです。 全て 貴方のお陰です! 有難う! 安らかにお休みください!