1)いつも思う事だが、中学生や高校生がイジメ等が原因で自殺する事件で、実の親が学校や教育委員会に苦情を言いマスコミにも出て、その責任を追求して自分達は被害者の様に振舞っている!馬鹿げた親だよ!こんな親だから自殺するのだ。どうして自らが子供の悩みを聞いて、自殺する前に学校や教育委員会に文句を言わないのか?死んじゃってからでは遅いんだよ!親が子供を守れんでどうするんだい? 原因の半分は家庭にあると思うのは私だけではないでしょうーー?
私は各年齢でそれぞれの先生に大変恵まれたと思う!正直言って だから私は今日までの良い?人生を送ってこれたと思う! 皆さんはどうですか?
2)小学校の担任は低学年時と高学年時と二人だった。低学年の担任は殆ど記憶がないが高学年の先生は覚えている。私は習字が得意で度々新聞(地方紙)に載ることがあり、記者が来て放課後に掲載する作品を教室で習字紙に清書するのだが、先生は「この子は気が散ると上手に描けないから、席を外してくれ!」と私の性格を理解し守ってくれた。又 国語のテストで「湖」に平仮名をうつ問題で「水海」と書いたら△だった。
3)中学校では高校受験の大事な三年時に、私はある同級生の女子に恋心を持ち手紙や電話で度々アタックしてた。夏休み中だったと思う、担任教師が学校の宿直当番だった日に夕方 その担任に呼び出されたのだ。「おい お前!受験勉強やってるかい? ところで S子が好きかい? 」「彼女のお母さんが俺のところに相談しに来た。彼女は東京の高校に受験する大事な時だ。お前だって受験だろう!」「お互いに頑張って希望高校に入り、その後文通したらどうだい?」と。兎に角 お節介焼きの先生だった。
4)高校時代は三年間水泳部に所属してて、若い体育教師が新監督だった。東京の教育大で水泳をやってたから本格的な指導だった。「タバコは絶対にダメだ!即 退部してもらう!水泳選手にとって毒以外の何物でもない。酒ならいいがーー少しだけなら!」と。この監督 生徒会の顧問時 ある事件で校長と対立、その後 教育委員会より左遷させられた。又 大学受験の三年時は男子クラスで、担任教師は放任主義?でクラスの半分は大学受験に失敗し浪人に、担任も「やってられん!」とその年に教師を辞めたらしい。私も一年浪人した(この浪人時代も色々な出会いがあり、一つ記事が書けますがーー)。
5)横浜での大学生活は私の人生で一番大きい巡り会い?がありました。人生の恩師となった先生で、1968年の夏でした。その教授と出会うことが無ければ現在の生活は無かったでしょう。それは大学四年目の学生運動が真っ盛りの頃でした、四年目というのは四年生ではないです、将来の方針が決まらず勿論卒業できる単位も足らず、授業にも出ずにブラブラと遊び呆けていたのです。私はノンポリで全く政治にも興味がなく学生運動には参加しませんでした。金が無くなると港湾関係に行けば色々あり、喰うには全く困りませんでした。
そんな私をK教授は研究室の学生に私を探させ呼びつけて「愛知県からわざわざこの大学へ来て、何をやってるのか!」「卒業する気があるのか!お前はまぁまぁの成績で入ってきたじゃないか、特に英語がいいね!」と私の入学履歴等を見て、「俺は名古屋出身なんだよ!放っておけん!授業に出なさい!」「奨学金が止められアルバイトが忙しく授業に出れない。」(奨学金は成績が悪く忠告を受けたが三年目で停止)と言う私に、大学近くの学生らがよく利用する居酒屋兼大衆食堂での「食事代は俺に付けとけ!必ず授業に出なさい!」と言うのだ。
(この話は長くなるので今日はこの辺で止めます。この教授との出会いで普通では考えられない体験が数々あり私は成長しました、改めて別の機会にお話しします。)