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日本人とユダヤ人の繋がり(1)

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今までの記事で、ユダヤ人は世界経済に非常に大きな影響力を持っていることがわかります。

日本人とユダヤ人の繋がりを調べてみました。先ずは、

●「東洋のシンドラー」杉原千畝氏

第二次世界大戦中リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原千畝領事代理が外務省の訓令に反し、ナチスの迫害を逃れてきた6000名にのぼるポーランド系ユダヤ人にビザを発給し救い「東洋のシンドラー」と呼ばれる。( Google;opccorp.com、写真は杉原千畝氏、nishinippon .co.jp)

ユダヤ人にビザを発給したのは日本領事館の杉原千畝氏だけでなく、中南米その他の国々の領事や総領事の中には、ビザの発給の際に避難民に手数料を取るだけの空ビザや手数料以外に高額な代金を要求しているものがいたようです。

このように、決して人道的とは言えないビザ発給の実態がある一方で、本国の考えに背き、また困難な状況であっても力の限りビザを発給し、ユダヤ人を救おうとした杉原千畝氏の勇気と人道性は現在に至るまで高い評価を受けています。(右上の写真は「Sugihara Street Netanya イスラエル」)杉原千畝氏同様に上司や本国の命令を無視して「命のビザ」を発行した外交官として、在オーストリア・中華民国領事の何鳳山や、在ボルドー・ポルトガル領事のアリスティデス・デ・ソウザ・メンデスがおり、ともに諸国民の中の正義の人に認定されている。

「シンドラー」とは人の名前で、オスカー・シンドラーというドイツ人(生まれは現在のチェコ)の実業家。やはり第二次世界大戦末期に、多くのユダヤ人の命を救ったことで知られる人物です。彼は、ドイツ占領下のポーランドで自らが経営していた軍需工場(戦争のために必要な物資を製造する工場)に労働者としてユダヤ人を雇い入れ、その身柄を保護することで、1200人に上ると言われるユダヤ人の命を救いました。彼がユダヤ人労働者の保護を申請するために作成したリストは「シンドラーのリスト」と呼ばれています。これをタイトルにした映画は大きな反響を呼び、シンドラーという人物はさらに多くの人の知るところとなりました。(以上 Google; jacar.go.jp、写真は「オスカーシンドラー」)

● 杉原千畝の2年前に難民を救出した軍人

「日本人によるユダヤ難民救出」と言えば、杉原千畝の名前を思い浮かべる人がほとんどであろう。だが、実は「ユダヤ人を救ったもう一人の日本人」がいることをご存知だろうか。その人こそ「忘れられた中将」こと陸軍軍人・樋口季一郎である。(右写真「樋口季一郎陸軍中将」Wikipedia)

辺境の地・オトポールに逃れてきたユダヤ難民に対し、1938年(昭和13年)ハルビン特務機関長の任にあった樋口は、人道的な見地から特別ビザを発給するよう満州国に要請。ドイツと日本の関係性を憂慮するあまり、ユダヤ難民の入国を拒んでいた満州国外交部に対し、樋口はビザ発給のための指示を与えたのであった。結果、多くの難民が命を救われた。これが「オトポール事件」である。救出した人数は2万人など諸説があるが、数千人のようです。

その後、樋口は北方軍司令官を拝命。1943年(昭和18年)5月には「アッツ島の戦い」を指揮することとなった。樋口は現地軍への増援を大本営に求めたが、東京の上層部はこれを棄却。アッツ島はあえなく玉砕した。こうして樋口は「先の大戦における最初の玉砕戦の司令官」となった。多くのユダヤ人を救った男は、部下の日本人を助けることができなかった。樋口は号泣したという。

終戦直後に勃発した「占守島の戦い」では、樋口は徹底抗戦を指示。この戦いにより、ソ連軍の暴走は食い止められた。もし、この戦いがなければ、北海道が分断されていた可能性は否定できない。(Google; bunshun.jp)

又 他にも「樋口季一郎」を紹介しています。

ユダヤ難民と北海道を守った人道派将軍

当時、日本はナチスドイツと防共協定を結んでおり、ナチスに追われたユダヤ人を満州に受け入れることは、日本の外務省、陸軍省、満州の関東軍にも反対論が強かった。しかし緊急の人道問題だと理解した樋口は馘(くび)を覚悟で、松岡洋右満鉄総裁に直談判し、2日後にはユダヤ難民を乗せた特別列車がハルビンに到着した。

案の定、独のリッベントロップ外相から外務省にこの件に関して強い抗議が来た。樋口の独断行為を問題にした関東軍の東条英機参謀長は、新京の軍司令部に樋口を呼び出した。しかし強い決意の樋口は、軍の「五族協和」「八紘一宇」の理念を逆手にとり、日露戦争時のユダヤ人の対日支援に対する明治天皇の感謝の言葉なども引き、ナチスのユダヤ人弾圧に追随するのはナンセンスだと、人道的対応の正しさを強く主張した。

樋口の捨て身の強い信念と人物を見込んだ東条は、彼の行動を不問に付すことに決めた。樋口は関東軍や東条の独断専行には批判的だったが、後に「東条は頑固者だが、筋さえ通せば話は分かる」とも述べている。

終戦後、マッカーサー総司令部は樋口の引き渡しを拒否。後で判明したことだが、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会が、大恩人の樋口を守るために米国防総省を動かしたのである。(sankei.com)(写真は「ユダヤ難民と北海道を守った人道派将軍」の改憲論は注目に値する。樋口隆一編著/勉誠出版・4500円+税)

● 日露戦争に資金援助したユダヤ人

ジェイコブ・ヘンリー・シフ(Jacob Henry Schiff, 1847年1月生)は、フランクフルトの古いユダヤ教徒の家庭に生まれる。代々ラビの家系で父は銀行員。少年時フランクフルトのゲットーで、初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルド時代に「グリューネシルト(緑の盾)」(Haus zum Grünen Schild)と呼ばれる建物にロスチャイルド家とともに住んでいた。1865年(18才)に渡米する。ニューヨークに着いた時はほとんど無一文だった。はじめ銀行の出納係に就く。28歳の時、クーン・ローブ商会(金融財閥)に就職、その後 頭取、「ロスチャイルド家」の代理人、アメリカの銀行家、慈善家。(右写真「ジェイコブ・ヘンリー・シフ氏」wikipedia)

日露戦争に際しては、日銀副総裁であった高橋是清外債募集のためアメリカにわたるが、どこも公債を引き受けようとしなかった。第1回の戦時国債は1,000万ポンドが必要だった。ある銀行家の晩餐会で隣席したシフより「日本兵の士気はどのくらい高いか」などとの質問をうけ、高橋が応答すると、翌朝、500万ポンド公債シフが引き受けることが伝えられ、1904年5月、日本は戦時国債を発行できた。(右写真「高橋是清氏」wikipedia)

シフ2億ドルの融資を通じて日本を強力に資金援助したことで、日本勝利と帝政ロシア崩壊のきっかけを作った。以後日本は3回にわたって7,200万ポンドの公債を募集、シフはドイツのユダヤ系銀行やリーマン・ブラザーズなどに呼びかけ、これも実現する。結果として日本は勝利を収め、これ以後、高橋との親交を結んだ。

シフが高橋に語ったところによれば、融資の理由はロシアでの反ユダヤ主義(ポグロム)に対する報復だったと言われている。1881年、また1903年4月にはロシアで大規模なポグロムが起こっていた。「ロシア帝国に対してたちあがった日本は神の杖である」と又 この融資は、シフにとって莫大な利益だったと回想録に記している(写真は「棍棒を持った子供達に追い回されるユダヤ女性」ウクライナ)

日露戦争後 1906年、シフ日本政府に招聘され、グランドホテルに宿泊。3月28日には皇居を訪れ、明治天皇より最高勲章の勲一等旭日大綬章を贈られた。

イスラエルのモシェ・バルトゥール駐日大使が1966年に着任した際には、昭和天皇より「日本人はユダヤ民族に感謝の念を忘れません。かつてわが国はヤコブ・シフ氏に大変お世話になりました」という発言を受けたようだ。 (以上 Wikipediaより抜粋・校正)


「ユダヤ人と日本との繋がり」は、未だあり(2)に続きます。

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