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日本の自動車産業を振り返る!(1)

更新日:

「日産自動車」「三菱自動車」がフランスの「ルノー」傘下になり約10年になり、現在色々な問題が生じて世間を騒がしています。カルロス・ゴーン氏の話は別にして、両社が自社を維持できず「ルノー」傘下になった理由はなるべくしてなったのです。それは社員やエンジニアの資質の問題であり、それを許した会社組織に原因があるのでしょう!「それは私どもの業界では想像できたことでした。」

 

の仕事は、自動車メーカーの新車の開発部門や試作部門に在籍するエンジニア達が必要とする工業材料を彼らの仕様通りに作り供給することでした。ですから彼らの真意を汲み取り密接に打ち合わせする事が多いし大切でした。

約半世紀前になりますが、は1970年(昭和45年25才)横浜の大学在学中に「縁」あって、大学教授が顧問であるベンチャ企業に参加しました。「縁」とは私が中々卒業せず(出来ず)にブラブラ遊んでいたから同郷の教授から呼び出され「日本の自動車産業が今後 世界に進出するためには、新車の開発から日本独自の工法で取り組まねばならない。今までの自動車の新車開発は全て海外の特に米国の技術で同じ技法でやってきたが、それでは絶対にビッグスリー等には勝てない。日本独自の開発工法を考え、それに必要な工業材料(ツールやモールド用材料)を日本で国産化する必要があるのだ。今 使われている外国製工業材料(エポキシ樹脂系で二液常温反応型の複合材料)を分析し先ずは同等品を作り、更に日本のオリジナルな工業材料に発展させるのだ。」と。エポキシ樹脂の製造技術では日本の第一人者の教授と某米国系工業材料販売会社の役員と日産自動車の関係者らが同じ横浜地区ということで発足したベンチャー企業でした。

当時は「いざなぎ景気」と言われ「新・三種の神器」要するに「3C」と呼ばれるカラーテレビ(Color TV)・クーラー(Cooler)、自動車(Car)の耐久消費財が普及しだした頃でした。自動車産業は、環境・燃費・リサイクル・ハイブリッド等の問題は全く考える必要もなくただ自動車が一般大衆に広まり、販売を伸ばすことだけでした。勿論 価格は一般人が購入できる安い価格にする必要がありますが、車というものは売れれば売れるほど原価が下がるものです。先ずは販売することです。それには「デザイン」でアピールするしかないのです。

毎年 秋に晴海埠頭で行われる「日本モーターショー」の人気は、最近では考えられない程に一般人・家族連れ・高校生までもが押し寄せワンサワンサの賑わいでした。自動車産業の関係者には一大イベントで、惜しげなく大金を費やしたのです。ショー用の車や新車の紹介・発表に若くて露出度の高いモデルを起用するのが一般的で、展示される車にかける費用が1億円なんてザラの時代でした。

ベンチャーの会社だったが、大学の研究室の協力で、日産自動車のモデル部門や試作部門の要求に答える形式で、テーマを徐々にこなして2年目には商品化できる製品が増え、「いざなぎ景気」にも順調に乗り企業自体は5年位で安定してきました。当時の日産自動車の試作部門は、荻窪の旧プリンス系鶴見大黒町の系列の二つでお互いにエンジニア同士が張り合い?切磋琢磨してたのです。

ある時に日産自動車荻窪の試作部門を廃止、鶴見に統合する合理化により旧プリンス系のエンジニアが一部退職しました。退職した人間がホンダ?に移ったことも聞きました。旧プリンス系のエンジニアは中島飛行機の繋がりもあり、技術面でも日産とは一線を画していた(スカイラインは荻窪発)のですがーー。又 「日産の体質が縦割り社会でお役所体質であるのは関係者は皆さん知っています。」書類に判子が並んでないと前へ進めないのです。仕事が出来てやる気のあるエンジニアにとっては腹立たしいことです。

私はその両方に付き合いがあったのでよく理解できました。だが 世間は高度成長で活気ずき日産自動車の売り上げも好調で、何ら違和感はなく、鶴見のエンジニアらは自覚せずに出入り業者の接待ずけでした。当社で打ち合わせに来たついでに、乗ってきた自分の車にガソリンを満タンにして帰るのは日常茶判事のこと。荻窪のエンジニアは決してそんなことはしませんでした。そんな彼らを日産が辞めさせたのです。

 

「ホンダ」にも3年目位から取引きができ、「本田技術研究所」「ホンダエンジニアリング」の各試作・モデル部門とお付き合いするようになりました(「ホンダ」は前の二社と本家で生産部門の「本田技研工業」の三社で成り立つ)。そこでハッキリと会社の体質がよく分かりました。「ホンダ」のエンジニアは各部門で年齢と関係なく自分のアイデアに予算が組め、決行することができるのだ。又 新車のモデル承認の場所に役員不在で決定(ホンダのターゲットは若者、役員は年長者が多いから若者の発想に弱いから除外)。あるテーマが重要であれば全エンジニアがそれだけを追究するのだ(排ガス規制等)。又 当時健在だった「本田宗一郎」が現場を作業服姿で度々回っていたそうだ。又 エンジニアらも接待を受けることもあるが度を過ぎる事はなかった。研究所で自動車の安全担当エンジニアだった私の友人が言うには、「この会社は人遣いが荒いよ!米国出張は大概 一泊三日か四日だよ!現地のホテルで泊まれるのは1日だけだ。」と。彼は中途入社のエンジニアだが「ホンダ」はそういう中途入社の人が意外と多いのも特徴だがーー。

要するに日産自動車では考えられない事象が「ホンダ」では平然と実行されてたのです。

この辺で(1)は終了、(2)「三菱」と「トヨタ」の」話です。

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