「アヘン」で財を築き、「日本人」を嫌った!
3)「サッスーン財閥」とは
●「サッスーン家」は18世紀にバグダード(イラク)に台頭したセム系ユダヤ人の富豪で、オスマン帝国の治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商。 後に清国で「アヘン王」と呼ばれた「デビッド・サッスーン」(1792年~1864年)はサッスーン家の子としてバグダードに生まれ、そこで活動していたが、シルクロードの交易によって益々その富を蓄え、ボンベイ(現インド・ムンバイ)へ移住。(写真は「デビッド・サッスーン」wave.ap.teacup.org)
● 彼は1832年にボンベイで「サッスーン商会」を創業し、インド産の「アヘン」を密売し始めた。 サッスーン商会はイギリスの東インド会社からインド産の「アヘン」の専売権を取得し、「アヘン」を清国で売り、清国の銀を運び出し、とてつもない利益を上げた。 デビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれる程になった。(上図は 1772~1842年の「三角貿易」体制)
(左写真は「1772~1842年の「三角貿易」nihonsi-jiten.com」、右写真は「アヘンで財を成したサッスーンyoutube.com)「アヘン」は、ケシの実に傷をつけ、その傷からにじみ出る乳液を採取して作られる麻薬である。 「アヘン」は約10%のモルヒネを含み、精製の必要がなく、顕著な薬効がある為、昔から麻酔薬として使われてきた。清の時代に「アヘン」を薬としてではなく、タバコのようにキセルを使って吸うことが流行した。「 アヘン」は、吸い続けると中毒になり、やがて廃人になってしまうという恐ろしい薬で。
又 彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、アヘンと紅茶は、彼の手の中で同時に動かされていた。「アヘン」を大量に送り込まれた清国では、「アヘン」が大流行して社会問題となった。清政府は密輸アヘンの取り締まりを強行、焼却処分では燃え残りが出るため、専用の処分池を建設し、アヘン塊を切断して水に浸した上で、塩と石灰を投入して化学反応によって無害化させ、海に放出した。この時に処分したアヘンの総量は1,400トンを超えた。
●やがて、清国が「アヘン輸入禁止令」を出したことに端を発した「アヘン戦争」(1840年)が勃発。敗れた清国は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲、さらに賠償金2億1000万両を支払わされ、イギリスをはじめ列国の中国侵略の足がかりをつくることになる。(写真は「アヘン戦争」Google; falcons.blog95.fc2.com)
その意味では、「サッスーン財閥」はヨーロッパ列国に、第一級の功績を立てさせたアヘン密売人だった。
(右写真は「アヘン倉庫」www.pinterest.jp、左写真は「上海のアヘン窟」www.pinterest.jp)
●アヘン戦争以降、ユダヤ財閥たちは競って中国へ上陸していった。清国はイギリス以外の外国の国々とも不平等な条約を結ぶことになってしまった。肝心の「アヘン」については条約では一切触れられることなく、依然としてアヘンの流入は続いた。
「サッスーン財閥」はロンドンに本部を置き、上海に営業所を設け、英・米・仏・独・ベルギーなどのユダヤ系商事会社、銀行を組合員に持ち、「イングランド銀行」および「香港上海銀行」を親銀行に、鉄道、運輸、鉱山、牧畜、建設、土地・為替売買、金融保証を主な営業科目として、インド、東南アジア、インドシナ、中国に投資を展開していった。
●1930年には、彼らの極東開発計画のため、上海に「サッスーン財閥」の本拠地を建設し、25億ドルの資本による「50年投資計画」を開始した。(毎年1億ドルの投資を25年間継続して、中国の経済と財政を完全に掌中に握り、後半期25年で、投資額の4倍の利益を搾取する、というのが当時の彼らの計算であった)。
上海は元は寂しい漁村だったが、「アヘン戦争」の結果として、イギリスの対外通商港となり、一挙に中国最大の都市に成長した。繁栄をきわめ、「魔都」とか「東洋のニューヨーク」と呼ばれた。※ 右の画像は1930年頃の上海の風景であるが、あたかも当時のアメリカのニューヨーク、イギリスのロンドンかと錯覚を覚えてしまう。これらの建築物は「サッスーン財閥」に代表されるユダヤ資本によって建てられたものである。
●「サッスーン財閥」は、デビッド・サッスーンの死後、アルバート・サッスーン、次いでエドワード・サッスーンが相続し、三代の間に巨富を築いた(この「サッスーン家」は「ロスチャイルド家」と血縁関係を結んでいる)。
(右図は「アヘン貿易時の関係図」money-res.com)、左の家系図は広瀬隆氏が作成したもの(『赤い楯』より)。この家系図の登場人物は、全員がユダヤ人である。二代目のアルバート・サッスーンの息子エドワード・サッスーンの妻は、アリーン・ロスチャイルドである。香港最大の銀行「香港上海銀行」のほとんどの株を握ったアーサー・サッスーンの義理の弟は、金融王ネイサン・ロスチャイルドの孫レオポルド・ロスチャイルドだった。
以上 Google; 「アヘン戦争の舞台裏」inri.client.jp 一部校正)
●「サッスーン家」は、アヘン密売で莫大な富を築いた一族で、並みいるユダヤ財閥の中でも、ケタはずれの財産を保有する、屈指の財閥であった。(サッスーン家は、英ロスチャイルド家の東アジア代理人であった)。彼らは当時、上海を東洋進出への最大の本拠地と考えていた。
● 1937年から始まった支那事変(日中戦争)は約8年にもおよんだ。だからこそ、莫大な資金をつぎこんで中国国民党の蒋介石軍を支え、日本を中国大陸から追い出そうとしたのである。(右図は、「日中戦争1937~1945年」gakuen.gifu-net.ed.jp)
蒋介石軍の兵器、装備、兵たん部が充実していたからであり、それら大部分の戦費が、ほぼすべてユダヤ財閥「サッスーン」から出されていたからである。(蒋介石夫人の宋美齢の一族・宋家(浙江財閥)もユダヤ資本と友好関係にあった)。
● 海軍の犬塚惟重大佐の「犬塚機関」は、「サッスーン家」が反日的姿勢を改め、日本に協力してくれることが何よりも重要だと考え、1939年夏、「ビクター・サッスーン」を上海の虹口地区(通称「日本租界」)に招いて会食を開いたりしたが、しかし努力むなしく空振りに終わった。
「上海キング」と呼ばれていた「ビクター・サッスーン( Victor Sassoon 1881〜1961年)」は、日本の「フグ計画」に協力するのを断固拒否し続けた。「ビクター・サッスーン」(デビッド・サッスーンのひ孫)はイギリス育ちで親英主義者であり、反日的であった。(右写真は「ビクター・サッスーン」inri.client.jp)
● サッスーン一族の繁栄の最盛期を具現化した「ビクター・サッスーン」は、不動産投資に精を出し、破綻会社の不動産を買い叩き、借金の担保の不動産を差し押さえた。そして彼は、「グローヴナー・ハウス(現・錦江飯店中楼)」、「メトロポール・ホテル(現・新城飯店)」、「キャセイ・マンション(現・錦江飯店北楼)」などを次々と建築した。中でも彼の自慢は、写真の「サッスーン・ハウス(現・和平飯店)」で、サッスーン家の本拠とすべく建設したものであった。その後、貿易、運輸、各種軽工業などにも事業展開していったビクター・サッスーンの最盛期の資産は、上海全体の20分の1もあったと言われている。彼は「東洋のモルガン」の異名を持っていた。(上写真は『「サッスーン財閥」の居城だった「サッスーン・ハウス(現・和平飯店)」である。頭頂部のピラミッドを思わせる塔が特徴であり、当時は「東洋一のビル」と称えられた。10階から上のペントハウスはサッスーンの住居である。1929年に建設された。』inri.client.jp
1936年、中国で突然「貨幣改革」が断行され、蒋介石率いる南京政府発行の紙幣以外は中国の紙幣ではないと宣言されたが、この大改革も中国の「サッスーン家」などのユダヤ財閥によってもたらされたものであった。(中国の通貨は清代以来、銀を基本として各地の様々な銀行が紙幣を発行していたが、統一がとれておらず不安定であった。)
「貨幣改革」によって、中国の銀は奔流のような勢いで海外に流出した。もっとも、中国政府は輸出銀に対して関税を課して、一挙に二重の利を得た。そして、中国での1円の銀は海外銀行に預けられ、ユダヤ系銀行はこれをロンドン、ニューヨークの市場に1円80銭で売り飛ばして莫大な利益をあげ、それを蒋介石一派と山分けにしたのである。イギリス政府は、中国に対して銀を預かる代わりに新紙幣に保証を与えたが、もし中国側がイギリスの意に反すれば、紙幣は紙切れになるしかなかった。
「サッスーン財閥」は、この中国銀準備を担保にして、日本との戦争のための大量の武器を蒋介石政府に買わせた。(サッスーン財閥系列の「香港上海銀行(HSBC)」は、この銀回収を利用して、3億元の巨利を占めたといわれている)。
● アメリカ系ユダヤ本部は「日独伊三国同盟」を知って、日本海軍のユダヤ難民の受け入れ案に不賛成の意を表明してきたのである。
これがために上海ユダヤと米国ユダヤが対立することになり、頼れるのは日本だけとなったユダヤ難民は、「犬塚機関」を心から頼みにするのだが、日独伊軍事協定が結ばれるや、英米系租界(共同租界)でユダヤ難民を受け入れようとする工作が起きる。まさにユダヤ難民の奪い合いとなり、サッスーン財閥の “軍民離間工作”は功を奏した。つまりサッスーンはユダヤ人ではあっても、心は「英国人」であったから、英米共同の日本攻撃を支援したのである。(写真は「日中戦争」Google; kotobank.jp)
1941年12月8日、日本の軍部がサッスーン財閥を接収したとき、そこで押収した資料に「英国大使館宛機密情報綴」があった。それはサッスーンの個人的軍事情報だった。つまり彼がイギリス王室直属のスパイ(キング・サービス)であったことを物語る。
● 日本との戦争で、自分の身の危険を感じた「ビクター・サッスーンは、財団の機構だけを残してアメリカに逃げ、その後バミューダ島で余生を送った。
しかし、その後、欧米のユダヤ資本による中国大陸の利権支配はうまくいかなかった。中国国民党の失政によって、蒋介石は大陸を失い、台湾に逃げ込む始末となり、ユダヤ資本は断腸の思いで上海を明け渡さなければならなかった。「サッスーン財閥」の在中国資産は、あらかた中共(毛沢東 中国共産党)政権によって没収されてしまったのである。(右写真は「蒋介石国民党総裁」 kawanya.exblog.jp)
●ところで第二次世界大戦後に「朝鮮戦争」に参加したマッカーサーは、この極東ユーラシア大陸での戦略面での困難さを体験したとき、日本のかつての“アジア侵略”を顧みて、「日本のアジア侵略は“自衛”のための戦争であった」という見解を示している。
(以上 Google; 「近代日ユ関係」yamatake19.exblog.jp )
本稿は長くなった理由は、日本に関係することが多いことと、戦争の隠れた面が解り、しかも私の知らない事だらけでした。
次回は、「クインロエブ財閥」の予定です。