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昨日に引き続き「大相撲・国技館」を掲載しますーーー!
昭和戦後初期の「大相撲・国技館」
戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年9月に土俵を16尺(約4.84m)と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所(11月:10日間)が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55m(15尺)に戻された。(右写真はGoogle;kajima.co.jp「旧両国国技館」1920年頃)
1946年に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所(13日間)が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、1947年には明治神宮外苑相撲場(下写真)にて行うこととなる。(右写真は、Google;goo .blog「メモリアルフォールとして改装された両国国技館」)
(上写真は Google;絵葉書資料館提供「明治神宮外苑相撲場」。右写真は Google;「明治神宮外苑相撲場」観戦状況)
青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は1948年の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年の秋場所(10月:11日間)には、戦後初の大阪場所が大阪市福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、優勝決定戦や三賞制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。
昭和戦後の大相撲
1949年になり日本橋の浜町公園内に仮設国技館(木造)を建設し、ようやく1月場所(13日間)を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館(蔵前国技館)も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となり、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。
(上左写真はGoogle;Wikipedia「蔵前国技館」。右写真はGoogle;mishanooheya.blog136.fc2.com「蔵前国技館は、戦後すぐから1984年(昭和59年)まではその川を渡った反対側の蔵前(台東区)にありました。1949年(昭和24年)に仮設で開場、正式にはその翌年に開場しました。収容人員1100人、相撲以外にもプロレス、ボクシングなどで使用されてきました。」
1950年から1952年は、本場所(1月、5月、9月)が各15日間実施(ただし1952年は大阪場所が開かれず、3場所とも東京で開催)。このうち大阪は、1950年9月場所は阿倍野橋畔に、1951年9月場所は難波(現在の大阪府立体育会館所在地)にそれぞれ仮設国技館を建て興行を行った。1952年に難波の仮設国技館を建替え、鉄骨製の大阪府立体育館(1987年から大阪府立体育会館)が竣工。翌1953年3月場所の会場となった。以後3月場所は大阪開催となり、現在に至る。
横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる横綱審議委員会が発足した。全国的にテレビが普及するに従い、NHKの相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。
栃錦と初代・若乃花の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。1957年には11月場所(九州場所、福岡スポーツセンター)、1958年には7月場所(名古屋場所、名古屋市金山体育館)を行うようになり、現在のような6場所(1月、3月、5月、7月、9月、11月)、15日間という体系になった。また、1965年1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ現在に至っている。
国会で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと(1957年3月2日の衆議院予算委員会および4月3日の衆議院文教委員会)を受けて、相撲茶屋制度の改革、月給制の導入、相撲教習所の設立などの改革が行われた。また理事長に重要事項の建議を行える運営審議委員会も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。横綱審議委員会の内規もこの時期に充実した。
1961年には年寄の停年制が実施された(「停年」の表記については後述)。1966年には法人名を日本相撲協会に改称。1967年には前頭・十両の枚数削減も実施した。1968年には役員選挙の制度を改定、1969年には勝負判定にビデオ映像の使用を開始した。
1965年にはソ連、1973年には中国、1981年にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。
1970年頃になると、力士と暴力団とのかかわり、八百長が疑われる内容の相撲の横行、力士の健康問題等の諸問題が明らかとなり、1971年12月には再び国会で協会のあり方が取り上げられた。これを受けた協会理事会において、中学校在籍中の入門の禁止(当時在籍していた中学生力士は、中学校卒業まで東京場所の日曜・祝日のみの出場となる)、公傷制度の導入(2003年11月場所限りで廃止されるまで続く)、相撲競技監察委員会の設置、行司の完全年功序列を廃し成績考課を導入等の改革を打ち出した。(いずれも1972年1月場所より施行)。(上写真は、Google;JIJI.com「東京大空襲で両国国技館や相撲部屋を焼失。旧両国国技館の外観。このころは日大講堂として使われていた」=1973年8月撮影【時事通信社】)
1985年1月、現在の国技館が鹿島建設によって両国駅近くに完成し、再び両国に相撲が戻った。蔵前国技館は旧軍放出資材を用いて建てられたため、新しい国技館の建築が検討されていた。相撲協会など関係者は、相撲と縁の深い回向院のある両国界隈に建設地を定めた。そして約3年、総工費およそ150億円をかけ両国国技館が落成となった。(右写真は、Google;kajima.co.jp「1983年4月27日地鎮祭での鏡開き。左から鹿島建設・石川社長、文部省・大塚文部政務次官、琴風、日本相撲協会・春日野理事長、新国技館建設設計審査委員会・前田座長、千代の富士」
右写真は「1984年 鹿島建設が手掛け新装なった「両国国技館」高さ40m、客席数11,000」
旧両国国技館は、1909年(明治42年)に建てられ、ヨーロッパ風の美しい外観で東京の名所になりましたが、大正6年に失火で全焼。その後、再建されたものの、1954年には、蔵前に国技館が建てられ、大相撲の拠点となりました。それから30年後の1984年、再び両国の地に新国技館が建てられたのです。新国技館は、吊り屋根と土俵が自動昇降で格納出来るようになっていて、相撲以外のイベントホールとしても使用できます。また、災害時のために館内に食料備蓄倉庫を備え、雨水を浄化する装置、大容量の自家発電機も完備しています。(Google;kajima.co.jp)
(上左写真はGoogle;kajima .co.jp「新装なった両国国技館全容」。右写真はGoogle; ニッポン旅マガジンより「大相撲の力士の幟」)
(上左写真は Google;Wikipedia、右写真はGoogle;THE GATE「大相撲 開催前の両国国技館内部」)
横写真は、Google;yuikaoriyui.hateblo.jp「1985年 大相撲の聖地 新両国国技館で開催されたプロレス興行」
(以上 Wikipedia より抜粋、次回に「平成の大相撲」「令和の大相撲」を掲載します。)
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中国のビザ発給停止措置めぐり…日中間で非難の応酬 岸田総理「遺憾」に中国「差別的制限措置を変更」
田総理が中国のビザ発給停止措置について「極めて遺憾」と発言したことに対し、中国政府は「差別的制限措置を変更するよう希望する」と応酬しています。 岸田総理は、滞在先のイギリス・ロンドンで中国政府が日本人向けのビザを発給停止にしたことについて「極めて遺憾だ」と述べました。
これについて中国外務省の汪文斌報道官(右上写真)は、12日の記者会見で改めて日本の水際対策を緩和するよう求めました。 中国外務省 汪文斌報道官 「私たちは関係国家が科学的な態度を持ち、相互尊重の精神に照らして、中国国民に対する差別的制限措置を早期に変更するよう希望する」 中国側は「日本が正常な人員往来や交流の回復のために努力するよう希望する」と発言しているのに対し、岸田総理は今回の中国側の対応について「新型コロナ対策とは一見関係がないと思われる」としていて、日中の間で非難の応酬が続いています。(1/12 23:57 TBS NEWS DIG ,news.yahoo.co.jp)