70歳からのクオリティー オブ ライフ - Quality of Life

自由人のオーガニック畑 Freeman’s Organic Farm

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思い出 その他の楽しみ

ふとーー思うこと あれこれ!(7−1)

更新日:

私は今年の秋には74才になります。後期高齢者に極めて近い高齢者だが、自分では全くその意識はないです。高齢者とも思っていませんーーー!有難いことに「オーガニック野菜畑」で各種野菜作りに挑戦、回数は減ったがゴルフの誘いに応じ、飲み会・麻雀にも対応している。その上 クラフトビールとワインを2ヶ月毎 交互に製造している。今年も4月に入れば釣りが始まるだろうーーー。釣りは友人の釣り船で本格的?な海釣りなのだ。又「ブログ」も書いてるが、これは自宅に居る時の早朝5時から7時までに済ませます。

先月から今月にかけて約1週間、New Zealandの友人宅を久しぶりに表敬訪問してきた。去年  訪問するつもりが何となく行けず、当地の銀行の解約もあり最後と思って行ってきたのです。

(下の写真は彼のParaparaumuの自宅、左の手前は車庫・艇庫で、乗用車とFDヨットを保管)

彼は大学のヨット部の同期で、東京(深川生まれ亀戸育ち)の生粋?の江戸っ子ですが、外資系の大手PC会社を早期退職して、首都Wellingtonに近いParaparaumuに47才で家族3人で移住したのです。彼は所謂 ヨット狂い(新橋育ちの奧さんに言わせるとヨットが恋人)で、二人乗り競技ヨットの真髄とも言えるFD(FlyingーDutchman)の競技選手で世界選手権に毎年出場するのがーー!今年は私が訪問する前日まで、南島のNELSONでの世界選手権、約2週間 競技してたが成績がイマイチの様で多くを語らなかった。来年のスペイン大会を目指す様だーーー彼に言わせるとヨット乗りに定年はない様で、年齢と共に大型ヨットに乗り替えるのが普通だが、彼は「FD」に乗れなくなったらおわり?との事ーーーー(彼の記事は別の機会にします)。

NY400 HOLAND ON HUDSON「1609〜2009 International Flying Dutchman Class 400th anniversary of New Amsterdam Championships and New Netherlands Championships」

(写真は2009.9.11 NYC HUDSON RIVERにて、NZ代表セールNO.110、船体NO.43が彼です。私が撮影しました。大会名にある「ニューアムステルダム」は1609年のニューヨークの名前で、400年の記念のFDヨットレースです。)

 

元気な彼は別にして、私は今までに大切な友人を何人も亡くしているのが悔やまれます。彼らの分まで私は生きなくてはならないのです。それで今回 哀悼の意味で彼らとの想い出を紐解いてみました。

1)同年の故伊豫田康弘氏の話です。小学校6年間一緒でしたが、彼は私と異なる約30km離れた名古屋の私立中学を選びんだことで、高校卒業まで一切の付き合いはなかったのです。小学校の高学年になった頃のある時に、彼がイジメを受けてる子を庇ったコトがあったのです。私は残念なことに単なる傍観者でしたから彼の正義感に惹かれ、彼に好感を持ち更に親しくなった様だ。彼は運動神経に優れ、スポーツは活発だったし「かけっこ」では私と良い勝負だったーーー。 彼は両親を幼児の時に亡くし兄弟がなく、街中で洋裁教室を開いてた叔母と同居し彼女が母親がわりをしてた。

その彼に高校卒業後の大学受験に失敗して、浪人が決まった名古屋の予備校内でばったり会ったのだ。丸6年ぶりの再会でした。不思議なもんですねーーーお互いに「ヤーー久し振りーお前もか!」それだけで6年間はあっと縮まりましたよ!どうしてた!ではなく「これから どうするかい?」その時だったかその後だったか忘れたが彼の姓が変わってて、子供のいない叔母さんの養子になったのだーーー。

同じ予備校だが彼は文化系で私は理科系なんでクラスや時間帯が違い、同室することはなかったが会えば、昔話は少しはあったが将来の抱負を熱く語たりあったーーー。勿論 彼の家にも行き、叔母さん(彼はお袋と呼んでる)に懐かしがられたーー。「俺は作家になる!」と彼は言い、私は「何か商売をやりたいなー!」と。

1964年6月だった、東京の有名予備校の模擬試験を受けに二人して上京した。目指す東京の大学への腕試しの筈が二人とも全くできず、全試験を終えた夜 先輩たちが居る「県人会寮」で二人して酒を浴びるほど飲んだ。五階の大部屋で何人かに励まされながら飲んでたが翌朝  目が覚めたら二日酔いで頭はガンガン、しかも其処は三階の誰か先輩?の個室だった。どうしてそこへ行ったのか全く記憶がないのだ。自宅に戻る午前中の新幹線内で正面に座ってたお姉さんが、我々を気付ってか?二日酔いの薬を二人にくれたのを覚えている。

1965年4月お互いに第一志望校は落ちて第二志望校に合格し、彼は東京で私は横浜での学生生活が始まった。ところが東京と横浜というせいか、学生時代は会う機会がなかった。又 不思議なことに一度も会うことなく10年近くが経ち、私がベンチャー企業に居て時々東京に行く機会があり、ふと思い出して電話してみたのだ。すぐ連絡がつきその夜会いお互いに近況を話し合った。新宿飲み屋街でかなりの酒を飲み酔い、彼の家族のいる四谷のマンションに転がり込んだ。

彼のマンションには、名古屋出身で高校時代からの縁で所帯を持った赤ん坊を抱いた奥さんが居た。その後 2年振り位に夜中 四谷のマンションに伺った時、前の奥さんではない女性が居たのだ。彼は直ぐに説明してくれた「前のとは別れた、息子は名古屋に戻った彼女に任した。」「俺は息子が20才に成るまで養育費を払わねばならないよ!その分は別個にアルバイトで稼ぐんだ!」と。その後 私も所帯を持ち家族が増え、1981年 父親の死去で横浜を離れ地元に戻ったことで、公私共に忙しく暫くは会う機会はなかった。

(長くなったので続きは次回(7−2)へーーーーー)

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