10月12日(木)ほぼ晴れ(13〜24℃、湿度94%、風速1〜2m/s 、体感温度 13℃、AQI 34-良い、10/12 5:30 現在)
10月7日(土)に、中東の「ガザ地区」を実効支配している「ハマス」が隣国「イスラエル」にミサイルを20分間に約5,000発を打ち込み、国境の壁を打ち破り、約1,000人規模の地上部隊を突入させました。(右図は、Google;「イスラエルとハマスの衝突を巡る構図」読売新聞オンライン)
「ハマス」の地上部隊は、ユダヤ教の祝日の10月7日(土)に南部の国境近くで野外音楽祭を楽しんでいたイスラエル人らや周辺のイスラエル人民家を急襲して、人質として100人以上を連れ去った。又 野外音楽祭の現場には約260人の遺体があったーーーー。
「ガザ地区」とは、パレスチナ国の行政区画である。名称は中心都市であるガザに由来し、パレスチナ領域の一部を占めている。 中東に位置し、地中海東岸に沿った長さ約50キロメートル、幅5~8キロメートルと細長いエリアに200万人以上が暮らしている。南西はエジプト領シナイ半島と接し、分離壁が設けられています。(Wikipedia,右図は Google; 生活協同組合パルシステム東京)
地中海に面した「ガザ」は、古代からアフリカとアジアをつなぐ交易の中継地として多くの人が行き交い、 アレキサンダー大王やナポレオンも足を踏み入れた歴史的な場所です。 長くオスマントルコの支配下にありましたが、 第一次世界大戦後はイギリスの委任統治領になり、 1948年には第一次中東戦争とイスラエルの建国の結果、エジプトの管理下になりました。
この時多数のパレスチナ難民が流入し、ガザの人口は5倍になりました。
1967年の第三次中東戦争によってイスラエルに軍事占領され、以来、インフラや産業が破壊されたまま整備されず、 人口の多い貧しい地域になっていきました。肥沃な土地はイスラエルの入植地として没収されたこともあり、 ガザの人々は低賃金労働者としてイスラエルに出稼ぎに行くようになりました。 その結果、ガザで、「インティファーダ(イスラエルへの抗議運動)」が1987年に始まったのは自然なことでした。
2005年、イスラエルはガザ内部から入植者と軍を撤退させ、事実上ガザを放棄しました。 しかしその代わりに周囲を封鎖、人や物の出入りを大きく制限しました。
2006年のパレスチナ自治政府の選挙では、それまでのPLO (パレスチナ解放機構。オスロ合意でイスラエルとの対話路線を選んだ「ファタハ」が中心で、民族主義的で非宗教的。)ではなく、 「ハマス」(イスラム主義を掲げる政治グループ、対イスラエル強硬派)が多数派となりました。 ハマスがファタハをガザから追放し、事実上ガザを支配するようになると、イスラエルはガザの封鎖を強化し、 2008年には食料や燃料など生存に必要な物資も最低限しか搬入されなくなりました。
2008年、2009年、2012年、2014年、そして2021年と、イスラエル軍は逃げ場のないガザに大規模軍事侵攻を行いました。 2014年の軍事侵攻では、過去2回をはるかにしのぐ激しい攻撃が、空、陸から51日間にわたって行われ、 死者2,251人(うち70%が女性や子どもを含む民間人)、 負傷者約11,000人、全壊・半壊家屋18,000戸という大きな被害がもたらされました。
2021年5月には11日間にわたって空爆が続き、民間人や子どもを含む約2,500人が死傷しました。
停戦後の現在も封鎖は続き、破壊された町の復興は遅々として進んでいません。 人々は、 いつまた繰り返されるかわからない戦争の恐怖を抱えながら生活しています。(Wikipedia;パレスチナ子どものキャンペーン)
「ハマースあるいはハマース運動」とは、パレスチナのガザ地区を実効支配するイスラム組織。名称はアラビア語で「イスラム抵抗運動」の頭文字を並べたもので、現在の最高指導者はイスマイル・ハニヤ氏。イスラム原理主義組織「ムスリム同胞団」を母体に、1987年にパレスチナ住民の間で広がった反イスラエル闘争(インティファーダ)を機に結成された。武力によるイスラエルの打倒とパレスチナにおけるイスラム国家の樹立を目標に掲げる。
イスラエルとの和平路線には反対の立場で、中東和平を目指すパレスチナ解放機構(PLO)とは対立関係にある。イスラエルへの武力攻撃やテロ行為を繰り返しており、欧米ではテロ組織に認定されている。2021年5月の大規模な交戦では11日間でガザで約250人、イスラエルで12人が死亡した。
2006年のパレスチナ評議会選で勝利した後、治安権限を巡りパレスチナ自治政府のアッバス議長が率いる主流派組織ファタハとの抗争が激化。翌07年ガザを武力制圧し、パレスチナはガザと自治政府が統治するヨルダン川西岸地区とに分裂した。17年に双方が共同会見で和解成立を発表したが、合意した統一政府の樹立は実現していない。
パレスチナのスンニ派イスラム原理主義、過激派、民族主義組織である。社会奉仕組織「ダワ」と軍事組織「イズ・アッディン・アル・カッサム旅団」を擁する。2006年のパレスチナ立法選挙で勝利し、2007年のガザの戦いの後、ガザ地区の事実上の統治当局となった。(Wikipedia、右表はGoogle; 日本経済新聞)
レバノンの「ヒズボラ」は「ハマス」に協調し、イスラエルに攻撃した!
「ヒズボラ」とは、1982年に結成されたレバノンのシーア派イスラム主義の政治組織、武装組織。日本の報道機関では「ヒズボラ」と表記される事が多いが、アラビア語の発音ではヒズブッラー、ヒズボッラー。アラビア語で「神の党」を意味する。(Wikipedia)
この被害は、50年前の第4次中東戦争(1973/10/6〜10/25)以来で「第5次中東戦争」の勃発かもーーーー!
「第四次中東戦争(10月戦争)」は、1973年10月にイスラエルとエジプト・シリアをはじめとするアラブ諸国との間で勃発した戦争である。中東戦争の一つに数えられ、ヨム・キプール戦争、十月戦争などとも呼ばれる。(Wikipedia)
「中東問題」とは パレスチナ問題が起源
中東戦争は、第一次(1948)、第二次(1956)、第三次(1967)、第四次(1973)の4度に渡って、イスラエルとアラブ諸国の間で発生した戦争です。大きな背景にあったのが、ユーラシア大陸とアフリカ大陸のつなぎ目にあるパレスチナの領有をめぐる「パレスチナ問題」で、そのポイントは以下の通りです。
・およそ2000年前、古代ローマ帝国にこの地を追われたユダヤ人が、19世紀末から大挙して帰還し始めたこと、 ・ユダヤ人の数が多くなるにつれ、2000年の間にこの地に暮らすようになっていたアラブ人(パレスチナ人)との間で、宗教の違いや所得格差に基づく衝突が絶えなくなったこと、
・1947年に国連で、両者で土地を分割することが決定されたこと、
・その分割は、ナチス・ドイツによる虐殺への同情と、第二次世界大戦中の連合国に対する協力への配慮から、ユダヤ人たちに有利な内容(土地の約56パーセント)であったこと、
・パレスチナ人やアラブ諸国が反対するなか、この分割決議に基づき、1948年にユダヤ人がイスラエルを建国したこと、です。