2月16日(木)快晴(-3〜8℃、湿度 66%、風速 3m/s、体感温度 -7℃、AQI 27-良い、2/16 4:30 現在)「寒の戻り」で寒い日です!
前述以外の日本の建築物で、世界遺産として登録された トップ10 点を紹介します。
1)法隆寺(奈良市)
(上写真は、Google; 「法隆寺金堂と五重塔」wikipedia)
「法隆寺」 国宝。奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある聖徳宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は釈迦如来。創建当時は斑鳩寺(鵤寺 = いかるがでら)と称し、後に法隆寺となった。法隆学問寺としても知られる。法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートル。西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群である。
法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年(平成5年)に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。法隆寺がある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和国(現・奈良県)と河内国(現・大阪府南部)とを結ぶ交通の要衝であった。付近には藤ノ木古墳を始めとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせる。
2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した。その画像から割り出した結果、建立した年の年輪年代測定を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることが改めて裏付けられた。問題は、金堂の部材が年輪年代からみて650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐採とみられることである。伐採年が『日本書紀』における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性をも示唆するものであるが、これについては、若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在する。 なお、「五重塔」の心柱の用材は年輪年代測定によって確認できる最も外側の年輪が594年のものであり、この年が伐採年に極めて近いと発表されている。他の部材に比べてなぜ心柱材のみが特に古いのかという疑問が残った。心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。また、川端俊一郎は法隆寺の物差しは高麗尺ではなく、中国南朝尺の「材」であるとしている。
「金堂」 国宝。入母屋造の二重仏堂。桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付。上層には部屋はなく、外観のみである。二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため修理の際に付加されたものであるが、その年代については諸説ある。金堂の壁画は日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものであったが、1949年(昭和24年)、壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。黒こげになった旧壁画(重要文化財)と柱は現存しており、寺内大宝蔵院東側の収蔵庫に保管されているが、非公開である。なお、解体修理中の火災であったため、初層の裳階(もこし)部分と上層のすべて、それに堂内の諸仏は難を免れた。この火災がきっかけで文化財保護法が制定され、火災のあった1月26日が文化財防火デーになっている(金堂壁画については別項「法隆寺金堂壁画」を参照)。堂内は中の間、東の間、西の間に分かれ(ただし、これらの間に壁等の仕切りがあるわけではない)、それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来を本尊として安置する。(右上写真は、Google; 「法隆寺金堂」一休)
「五重塔」 国宝。木造五重塔として現存世界最古のもの。裳階付きで、高さは32.55mであり、初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。初層から四重目までの柱間は通例の三間だが、五重目のみ二間とする。初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)。この塑像に使用された粘土は、寺の近くの土と成分がほぼ等しいことから近くの土で作られたと推測される。東面は『維摩経』(ゆいまきょう)に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は分舎利(インド諸国の王が釈尊の遺骨すなわち仏舎利を分配)の場面、南面は弥勒の浄土を表す。北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名である。その弟子集団の中の3体は、耳の無い、口先のとがった、眼のつりあがった頭部をしており、それぞれ馬頭形、鳥頭形、鼠頭形とよばれる。これらは十二支をかたどっているとも、薬師如来をまもる十二神将であるともいわれる。五重塔初層内部にも壁画(現在は別途保管、重要文化財)があったが、漆喰が上から塗られたことなどが原因で剥落してしまっている。心礎(心柱の礎石)は、地下3メートルにあり、心礎内からは1926年(大正15年)にガラス製の舎利壺とこれを納める金製、銀製、響銅製の容器からなる舎利容器が発見された。なお、舎利容器は、調査後、元の場所に納められている。(上右写真は、Google;「五重塔」Voicecream奈良)
「中門」(国宝) - 入母屋造の二重門。正面は四間二戸、側面は三間。日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点が特異である。門内の左右に塑造金剛力士立像を安置する。日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重なものであるが、風雨にさらされる場所に安置されているため補修が甚だしく、吽形(うんぎょう)像の体部は木造の後補に代わっている。門は現在、出入り口としては使用されず、金堂等の拝観者は廻廊の西南隅から入る。
「西院伽藍」は、南大門を入って正面のやや小高くなったところに位置する。向かって右に金堂、左に五重塔を配し、これらを平面「凸」字形の廻廊が囲む。廻廊の南正面に中門(ちゅうもん)を開き、中門の左右から伸びた廻廊は北側に建つ大講堂の左右に接して終わっている。廻廊の途中、「凸」字の肩のあたりには東に鐘楼、西に経蔵がある。以上の伽藍を西院伽藍と呼んでいる。金堂、五重塔、中門、廻廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建であるが、世界最古の木造建造物群であることは間違いない。金堂・五重塔・中門にみられる建築様式は、組物(軒の出を支える建築部材)に雲斗、雲肘木と呼ばれる曲線を多用した部材を用いること、建物四隅の組物が斜め(45度方向)にのみ出ること、卍くずしの高欄(手すり)、それを支える「人」字形の束(つか)などが特色である。これらは法隆寺金堂・五重塔・中門、法起寺三重塔、法輪寺三重塔(焼失)のみにみられる様式で、飛鳥様式とされる。(上写真は、Google;「法隆寺伽藍の空中写真(1985年)国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成」)
以上 Wikipedia より抜粋、以後 この項は明日以降 続きます!
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トルコでシリア難民差別が悪化、地震が影響 「略奪していた」との非難も
トルコ南部のシリア国境近くを震源とする大地震が2月6日に発生して以来、トルコでは400万人のシリア難民に対する差別が悪化している。被害後の混乱の中、シリア難民が略奪行為に及んでいたと非難する向きもいるという。現地では避難所で、トルコ人とシリア難民の居住スペースを分ける措置も取られようとしている。 トルコでは、シリアとの国境付近を震源とする地震の影響が、トルコに住むシリア難民400万人への差別を助長している。 地震被害を受けた街で、シリア難民が略奪をしていたと非難する声もある。ツイッターでは「シリア人はいらない」「移民は国外退去させるべき」など反シリア的なスローガンがトレンドになった。 地震ですみかを失ったシリア難民には、避難所から追い出されたという人も。 シリア難民のビラル・エルシェイクさん 「皆を受け入れる避難所だったのに、深夜2時に突然、追い出された。 誰か分からない人に連れ出された。午前2時に人が来てドアをノックし、バスに乗せられ、どこか別の場所に連れて行かれ、そこに泊まった。 私たちは1週間もこの状況で苦しんでいる」 シリア難民への反感は今に始まったことではない。トルコには、シリアの内戦から逃れた400万人の難民が住んでおり、安価な労働力としてトルコの雇用を圧迫しているとみなされていたが、地震が反感をさらに悪化させた。(2/16 0:48 news.yahoo.co.jp)